統一球問題に時代の変化を感じたりする

昨日は菊池の好投に興奮して記事を書き損ねてしまいましたが、試合の影で加藤コミッショナーの会見が行われたということで。


加藤コミッショナー、飛ぶボール隠ぺい「不祥事ではない」(スポーツ報知)


「知らなかった」というのも驚きましたが、「不祥事とは思っていない」というのも、もう何がなんやらという感じではあります。だいたい、昨日事務局長が「コミッショナーと相談した」と言っていたではありませんか。信ぴょう性にかけること甚だしいです。


さてしかし、コミッショナーの態度はともあれ、伝えられる現場の声は割と平静なものがあります。選手たちからすれば、飛んでいるのは感覚的に了解していたし、お互い平等なら大きな問題はないという認識もあるのでしょう。


もう少しつらつら考えてみますに、そもそも、最近まで「ボールが違うのは当たり前」という状況であったことが、そういった選手たちの声に反映しているのではないかと。たとえば、2000年代前半のボールは明らかに飛び過ぎでしたが、事前にも、そして今に至るまで「変えた」という説明はありません。いくつかのチームは、相手チームや日程によってボールを使い分けていたと聞きます。それが許されるおおらかさというか、いいかげんな時代だったのです。ほんの3年前まで。そんな環境で過ごしてきた選手からすれば、そこまで騒ぐほどのことでもないのかもしれません。


ただ、今の世論は違います。流れを変えたのは、間違い無く加藤コミッショナー肝煎りの統一球導入だったでしょう。日本でこれほどボールの反発力が注目されたのは初めてのことだったのではないでしょうか? 「ボールは全球団同じなのが当たり前」という概念を浸透させたのは、確かに統一球の功績でした。で、それによってファンの、ボールに対する目も厳しくなったのですね。


もしかしたらNPBばかりが以前の感覚のままで、「ちょっと反発力を変えるくらい大したことがないだろう」と思っていたのかもしれません。時代を変えたコミッショナーが、時代遅れな認識で批判されるとは、皮肉なものです。