「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

「言語は人の認識に影響をあたえるのか?」という問いに対する、言語学の追求の歴史。ネットの書評で評判を聞きつけて購入しましたが、期待通り、いや、期待以上に面白かったです。こういう本はもう大好き。読んでるあいだ幸せでいられましたよ。


エピソードは、英国首相として名高いグラッドストンホメロス研究から始まります。彼の研究はプロの学者並で、ホメロスの詩を入念に検討して研究書も著すのですが、その中で興味深い指摘をしました。それは、ホメロスの詩には色彩が欠けているということです。使われるのは黒と白、せいぜい赤まで。たまに他の色の描写があっても、「葡萄酒色の海」とか「緑色の蜂蜜」といった、いくら詩といっても不可解な使用法が並びます。極めつけには「青」という表現は一度たりとも出てこないのです。これは一体どういうことか。そこでグラッドストンが立てた大胆な仮説は、「古代人の目はまだ十分に発達していなかったから、これらの色が見えなかったのだ」というものでした。なんだか「神々の沈黙」の二分心を思い出すような話ですが、非常に刺激的な話です。


しかし、いくらなんでもこの数千年で人間の目がそれほど変貌したというのは無理がありました。では、ホメロスの描写をどう説明するのか。著者はこの魅惑的なミステリーから、言語と人の認識についての研究史を追っていきます。おおざっぱな方向性としては、「言語によって認識は影響される」という言語相対論と、「言語が違っても心のなかの認識は同じである」という言語本能説に分かれているようですが、著者の結論は「言語によって認識は(少しだけ)変わる。」というもので、弱い言語相対論ということになりましょうか。丁寧かつユーモアたっぷりの文章は外国人の著者らしくて好感がもてました。


なお、本書は日本の「青信号」についても少しだけ触れています。青信号という呼び方は、緑も青の内だった日本語の伝統を引きずっているわけですが、冷静に見れば「緑信号」ですよね。しかし、日本では諸外国に比べて実際に信号の青みが強いのだとか。

日本政府は一九七三年に、現実に合わせて名前を変えるのではなく、名前に合わせて現実を変えるべきだと決定した。(中略) そこで公式には緑の範囲内でありながら、できるかぎり青に近い色合いをアオ信号灯に選んだのである。


日本も割と無茶なことしてますね(苦笑)。個人的には、緑信号にならなかった理由は伝統もさることながら、「アオ」の方が「ミドリ」よりも発音が簡単ということがあるような気がします。