「魔術師―三原脩と西鉄ライオンズ」

魔術師―三原脩と西鉄ライオンズ

魔術師―三原脩と西鉄ライオンズ

今なお史上最高の監督との評価も高い、「魔術師」三原脩。先年ライオンズ・クラシックで西鉄時代にも光があたったこともあり、西武ファンとしても気になる存在でした。以前「三原脩の昭和三十五年」を読んだこともありましたが、そちらは大洋ホエールズの優勝に焦点を当てていましたので、本書でさらに三原(敬称略)と西鉄ライオンズ、さらには日本野球の歴史そのものを深く知ることが出来ました。


何しろ、西鉄と言えば今や昔々といった印象があるチームです。当時の選手ならまだしも、その監督なのですから、年代はさらに上。まさにプロ野球創成期を生き抜いてきたのが三原でした。当時、「職業野球」に対する社会的認知度は低く、大学野球で名を売った「早稲田の三原」は、ほとんど名義貸しのように巨人に入団。その三原の姿を見て、沢村栄治の父親が息子の入団に賛成したとか、今となっては隔世の感があるエピソードです。


その後巨人の姿勢に嫌気がさし、単身九州に渡り、西鉄ライオンズの監督となった三原は、緻密な野球で強豪チームを築き、日本シリーズ三連覇の偉業を達成します。選手達の自主性を重んじつつも、厳しい姿勢で士気を保ち、合理的でありながら興行としてファンの気持ちも考える三原野球はさすがというほかありません。しかし、三原は積もる赤字にやる気を失っていった親会社に見切りをつけ、西鉄を去ることになるのでした。


続いて大洋、近鉄、ヤクルトで指揮を執りますが、常に三原を悩ませたのが親会社の無理解と、読売球団の横暴でした。三原は、球団のトップは野球人が勤めねばならないという理想を持ち、相撲取りOBが理事となる相撲協会をうらやましがっていたそうです。まあ、昨今の相撲協会のゴタゴタを見るとあれですが……。三原が日本ハムの球団社長となっていた1978年、江川事件が勃発。妥協的なコミッショナーの要望に三原は一人反対しましたが、衆寡敵せず屈することになってしまいました。


本書が出たのが1999年。その後2004年、「プロ野球再編問題」という大騒動がありました。そしてそこでも、読売と一部球団が1リーグ制移行を強行しようとしました。結果としてその狙いは挫折し、楽天の参入、交流戦の実施などが実現したわけですが、結局、日本プロ野球が親会社の広告塔としてある状況は変わっていません。現実問題として採算が取れない以上、それはそれでしょうがないとも言えるのですが、もっと現場の人が球界上層部に行くべきだという三原さんの見解はもっともだと思います。実現するのはいつの日のことでしょうかね。