「靖国問題」

靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)

毎年夏になると問題化する首相の靖国参拝。賛成しようにも反対しようにもいまいち知識に欠けていると思ったので、この本を読んでみました。予想したよりも著者の主張がはっきりと出ていた(反対方向に)のは意外でしたが、色々参考にはなりました。特に靖国神社は死者の「追悼」というよりも「顕彰」のための施設であるという指摘と、自らの教義に対する神社側の傲慢とも見えるような主張が印象に残りましたね。
歴史認識とか対外問題まで含めるととても語れなくなってしまうような問題ですが、「国のために」という意義付けによって、死への悲しみをプラス方向に転換するというあり方は、良くも悪くも宗教の持つ基本的役割であるのだろうなと思わされました。人間は好奇心と論理力を持つがために、世界の不条理に対しても何らかの意味づけをしなければ気が済まない生物なのでしょう。この世の苦しみは神の与えた試練だとか、あるいは悪魔の仕業であるとか、死んでも良い行いをしていれば天国に行けるとか。マルクスは「宗教は人民のアヘンである」といいましたが、そのマルクス主義自体、結局一つの宗教的イデオロギーになってしまったのも人類の業の深さを感じさせられます。
ただ問題は、それが国家によって行われることが是か否かというあたりで、軍国主義どうこう以前に、首相の靖国参拝政教分離原則にそぐわないという気はします。僕も含め大多数の日本人は神社に参拝することにさほど違和感を感じないでしょうが、クリスチャンをはじめ他の信仰を持っている人や無神論の人もいるわけですしね。その辺を「日本的文化だから」とか「伝統だから」で通してしまうのでは、単なる多数派の横暴になってしまうんじゃないでしょうか。本書でも、靖国神社が「超宗教」として仏教やキリスト教を支配した戦前の様子が書かれていましたから、注意するところだと思います(クリスチャンの遺族が反対しても「合祀抹消はできない」の一点張りだったりして、どうも靖国神社さんの主張は「自分こそ日本の宗教の中心だ」みたいなおごりが見え隠れするんですよね……)。火の鳥太陽編にあった「わるいのは、宗教が権力に結びつくときです」という、台詞を思い出しました。
まあしかし、この靖国の話も考えてみれば不思議な問題ではありますね。根本的な話、魂が集まっているのでそれを祀ると言っても、字義通りに信じている人はほとんどいないことでしょう。科学的に言えば証明不能ですし、一応魂は存在すると仮定しても、靖国神社という一角に閉じこもるのではなくて、地元のお墓あたりにいそうじゃないですか? あるいはすぐに生まれ変わって別の命になっているかもしれません。なので、靖国という場所にこだわる必要が本当にあるのかどうか、どうもピンとこないというのが正直なところです。日本人一人一人がそれぞれのやり方で祈るのは当然として、国家の立場としては一歩引いた方が良いのではないかなというのが、今のところの僕の考えですね(あくまで今のところで、はっきりできないというのも実際のところです。最終的には理屈よりも感覚の問題だからでしょうか……)。まあここで首相参拝をやめると「外圧に屈した」みたいな状況になってしまうのが難しいところですけど……。