佐村河内さんの代作騒動についてもう少々

より正しい物語を得た音楽はより幸せである 〜佐村河内守(新垣隆)騒動について〜(森下唯オフィシャルサイト)


件の佐村河内氏と新垣隆氏の代作騒動について色々記事を読みましたが、なかでも一番腑に落ちたのは森下唯さんの記事でした。ということでいくつか引用。

違和感というのは、その音楽のたたずまいとプロフィールや売り出し方とのあまりの乖離に対してである。端的に言ってその音楽は、丹精込めて仕上げられた工芸品のように思われた。真っ当にクラシック音楽の教育を受け、あらゆる作曲技法に長けた知性に優れる人間が、都度つど何らかの書法の制約を自らに課しながら書き上げたものだと「わかった」。


なるほど。僕はクラシックが好きとは言っても「そこそこ」レベルなので、構成とか技法とか難しいことはわからないのですが、聞く人が聞けばそこは簡単に了解できたということなのですね。そしてもう一つ。

クラシック業界にある問題のひとつとして、能力のある作曲家は(多くの)演奏家が演奏したくなるような曲、聴衆が聴きたいような曲を書こうとしない、というのがある。そりゃそうなのだ。クラシックの作曲家というのは、少なくともオーケストラ楽器を用いた作曲については圧倒的な知識と技量を誇る。あらゆる技法を分析し自家薬籠中の物とできるような人が、過去の作品の焼き直し・パッチワークを作ることに甘んじて満足できるわけがない。


どうも、今回の事件の底流として流れているのは、この現実であるように思われます。新しいものを常に追い求めたい芸術家は、多くの聴衆が求めるものを提供してこなかったと。それで、「現代音楽」は結局狭い世界だけのものになってしまっているという話。


僕なんかも「美しくて分かりやすいロマン派のような作品を現代でも作って欲しい」なんて思うわけで、「HIROSHIMA」が受けたのも、「佐村河内氏の物語」だけでなく、そうした需要に答えた面が大きかったのではないかと。単純な音楽的な評価では「凡庸なパッチワーク」であったとしても、結果としてそれを可視化した功績はあるんじゃないかと思うのですよ(もっとも、僕は「HIROSHIMA」を未聴ですので、偉そうなことは言えないことをお断りしておきますが)。


この点については、作曲家の吉松隆さんがしつこくS氏騒動・交響曲編(隠響堂日記)にて、

その「稚拙なスコア」で書かれた「ごたまぜの作品」が、なぜ1時間にも渡って聴衆の耳を引き付けて放さない音楽として成立したのか?


と書かれているのも、この事件によって、佐村河内氏の曲が受け入れられた事実の全否定をするべきものではない、という趣旨かと思います。


で、みたび森下さんの記事から。

往年のクラシック作品みたいに聴いていて素直に心の動くような書法の音楽は、たとえば映画やアニメ、ゲームのBGMとして「発注」されない限り、なかなか生まれない。


僕がゲームやアニメのサントラを好きな理由がすっぱり分析されちゃった感です。大衆的で良いのです。美しくて、燃えて、あるいは悲しくて。そんな音楽を求めるなら、やっぱりサントラですよね(勝手に納得)。


最後にもう一点、興味深かった記事を。


偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ(JBpress)


筆者である伊東乾氏の、新垣隆氏に対する高い評価と、現代音楽作曲家の自負が伝わってくる一文。試験問題になぞらえて新垣氏の心情を忖度する例えはわかりやすかったです。ただ、反面で商業音楽に対する上から目線が強すぎないかという疑問は生じるところでありました。以前筆者の著作である「なぜ猫は鏡を見ないか?」を読んだことがあり、音楽について真摯に取り組んでいる方だというのは存じているのですが、こういう語り方では、結局現代音楽は「嫌われ者」になってしまうのではないかと危惧もしてしまいます。