「意識は傍観者である: 脳の知られざる営み」

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

これまでも何度か記事を何回か書いてますが、神経科学に興味があります。興味があると言ってももちろんただの素人なわけですが、こうした本を読むといつも面白くてしかたありません。それはきっとこの分野が、「人間とはなにか」という問いに、真っ向から科学でぶつかっているからだと思います。


本書はまず、意識というものが多くの人が考えているほど確実なものでないという観点からはじめます。意識というのは心の働きの中の氷山の一角であり、アクセス出来ない(けれども重要な)部分がたくさん組み合わさって人間は動いているのであると。また、脳を多党制の民主主義になぞらえ、様々な欲求がぶつかり合っている状況を書き出します。


印象深かったのは、俳優のメル・ギブソンの差別発言に関するエピソードで、飲酒運転で警官に呼び止められたギブソンユダヤ人に対する差別発言をし、素面に戻った時に深く反省を見せて謝罪したという一件。著者は、「ギブソンの『本当の』性格はどちらなのか?」と問いかけ、どちらも脳内の一部政党がとった「本当」であろうと推測しています。もっとも、片方はアルコールによって加勢されていたわけですが。


本書の後半は、著者が力を入れている分野であるらしい、犯罪と法制度の話へと話題が進みます。脳が物質的なものであり、その物質が遺伝や環境や病気で大きく揺らぐものであるならば、その人の行動を「非難」することが果たしてできるものなのだろかと。脳腫瘍が原因と思われる狂気で、大量殺人を犯した男の話が出てきます。彼は病気だったから無罪なのでしょうか?


また、急に小児性愛者になった夫に不安を感じて病院に連れて行ったところ、脳に腫瘍が見つかり、摘出したら元に戻ったというエピソードも紹介されていました。単に凶暴になるとかだけでなく、性的嗜好までそんな腫瘍一つで大きく左右されてしまうとは驚きです。著者は、今後さらに脳の研究が進むにつれ、非難や懲罰欲求に基づく法体系は適切ではなくなると説きます。それよりも、その人の危険性や累犯性を科学的に検証し、社会からの隔離や更生に力を入れるべきだと。なるほどという気もしますし、そうは言っても被害者感情としては罰を与えてほしいというのもあるだろうなと思ったりもしますね。


それにしても、こういった話になると考えさせられるのが、「結局人には自由意志があるのかないのか」という問題です。意志は脳が生み出すものであり、脳は物質的に動くしか無いのであれば、「自由意志は存在しない」としかならなさそうな気もするのですが、それはそれでどうしても直感に反するようにも思えます。


しかし著者は慎重かつ誠実に語ります。科学はまだまだ脳の表面しか理解しておらず、道は遠いのだと。そして、「ラジオの理論」で状況を絶妙に表現します。ラジオを知らない人がラジオを見つけ、内部を色々調べて、きっと針金の特定の配置が声や音を出すのだろうと結論するようなものだと。その人は電波のことを知らないので、遠くからラジオ電波が飛んでいることなど想像もつかないのです。もちろん、著者自身も断っているように、脳がラジオのようなものだと主張しているわけではありません。ただ、そういう可能性も排除できないというくらい、脳と心は分からないことだらけなのです。今後の発展に期待してますよ。


過去に読んだラマチャンドランの「脳の中の幽霊」とか ジェインズの「神々の沈黙」、「ファスト&スロー」の著者カーネマンとか、その辺の引用や紹介が出てくるのもなかなか楽しいところでした。